第4回 ダブルクリック


 覆水盆に帰らずとはよくいったもので、コンピュータなら「キャンセル」や「アンドゥ」ができるが、現実の世界ではなかなかそうはいかず、取り返しのつかぬ出来事というものも数多く存在するわけで、やってしまってから後悔するということもしばしばで、そういえばさっき帰宅する途中見掛けた情景なのであるが、発車しかけの地下鉄に駆け込もうとしたOL、目前で閉まりかけた扉に何を思ったのか持っていた携帯電話を差し出したところ、これががっちりと挟まれてしまい、慌てたOL今度はそれを扉から引き抜こうと躍起になってひっぱる内に駅員がとんでくるわ、電車待ちの人々は何だなんだと集まるわ、電車は発車できないわ、駅員にようやっと扉を開けてもらって抜き取った携帯電話は傍目に見てもあきらかに、なあんか壊れているわ、いや、なかなか面白いものを見せてもらったのだが、これとて、このOL、携帯電話を扉に差し出すという行為さえせねば起こらなかった椿事であり、そこでつらつら考えるに我々の「やってしまう」ことの多くは、手を前方に差し出すという行為に起因することに気がついたのであるが、その最たるものはボタンを押すという行為だろうか、子供のころ押してはいけぬ非常ボタンをついつい押してしまいこっぴどく叱られたことや、最近の言葉でいう「ピンポンダッシュ」、すなわちよその家の玄関の呼び鈴をピンポンと押してはダッシュで逃げるという悪戯をやって運悪く逃げそびれて捕まってしまい、こっぴどく叱られた上に親に通報されてしまいまたそこで輪をかけてこっぴどく叱られた経験などは誰しもあることだと思うが、ねえ、そこのあなた、ありますよねえ、などと呼び掛けていてもしかたがないので、本題に入ってみるのだが、エレベーターのボタンというものは常に押し間違えてしまう危険性を孕んでおり、これまでに一度たりとも押し間違えたことがないという人はおそらくいないのではなかろうかと思うのだが、一人で乗っているときの押し間違えは別段問題でもなく、違う階で開いてしまう扉を「閉じる」のボタンで閉めればいいことで、だがしかしたとえば、七階から一階へ降りる時に間違って二階なんぞを押してしまい、その後に別の階から人が乗り込んできた場合には、「ああ、こいつ間違えて押しやがったな」などとちょんばれなわけで、エレベーターの中ではそれが当然であるはずの沈黙すら普段より重く重おく自分にのしかかってくるわ、その二階で間抜けにもずいいいと開いてしまった扉を「えへへへへ。すいませんねえ。こりゃ、どうも、えへへへ」などと卑屈な笑いを浮かべつつ「閉じる」ボタンをゼビウスでバキュラをつぶすときですらこれほどには至らぬというほどの猛スピードで連射せねばならぬのもなかなかの屈辱であり、ああ、こんなときにキャンセルボタンのあらまほしきことよ、などと嘆いても、キャンセルボタンのついているエレベーターなどというものは存在せず、まあ仮に存在してもそれがたとえば遙か遠くエンパイア・ステート・ビルディングだったりすると日常生活とは無縁なのでちっとも助からないのであるが、しかしエレベーターにキャンセルボタンがあれば、かような間抜けな失敗の時はもとより、いい歳こいて無分別にも出がけに全部の階のランプを点灯させていきやがる不逞の輩の悪戯にも対処できるので、これはやはり必要なものなのではないのかという気が常々していたのだが、実はキャンセルの方法があったのだ。
 皆さんも身近なエレベーターで試してみて欲しい。おそらく、どのエレベーターでもということではないだろうが、少なくともうちのマンションにある「フジテック」の製品(というのかな)では確実である。その方法とは、なんと「ダブルクリック」なのである。
 そう、あなた方がワードを起動するときに使う、フォルダーを開く時に使う、ソリティアで遊ぶ時に使う、はたまたエッチ画像を閲覧するのにも使う、あのダブルクリックなのである。あの、四十歳以上の人間には絶対不可能といわれる奥義ダブルクリック、実際私の会社での上長、推定四十二歳、がついつい力んでしまいかちかちっとクリックすると同時にぐい、と腕に力を込めてしまうので、マウスポインタがアイコンから外れてしまい、どうしてもできない、という恐るべき技ダブルクリックなのである。このキャンセル方法の発見者はたまたまうちを訪れた知人なのであるが、こやつの商売はネットワークの管理者、さすが餅は餅屋というべきか。正確にはかちかちっ、というマウスを操作する時のタイミングとはやや異なり,カッ、カーッ、てな具合に押す。ううむ。説明しにくいな。あ、そうそう。モールス信号の「A」の要領で押すのです、なんて書いても分らんよな。まあ、いいや。
 とにかく、これで私のエレベーターライフにも一筋の光明が差し込んだ。もう、これからは押し間違えても大丈夫なのだ。しばらくは嬉しくて、エレベーターに乗るたびにいったん全部のボタンを点灯させておいた上、籠の下降よりも速いスピードで次から次へとキャンセルしてゆき、無事ノンストップに一階までたどり着くという、自称「パイプ・ドリーム・エレベータ・バージョン」なんて遊びもやっていたが、流石にもうすぐ三十路という人間のやるべきことではないという上位自我からの忠告によって馬鹿馬鹿しくなりやめた。
 先日、一階から乗り込んだエレベーターが閉まりかけたところへ、ひとりのおばさんが慌てて乗り込んできた。「すんまへん」なんて言いながらおばさん、四階を押して「あらあ」などといいつつ五階を押した。どうやら慌てていたので押し間違えたようだ。ちゃーんす。ダブルクリックを巷間に喧伝する千載一遇のチャンスではないか。
 私は「失礼」と手を伸ばし、四階のボタンを颯爽とダブルクリックした。要領は、カッ、カーッである。点灯していたボタンが消える。
 おばさん、点目になったあと、ボタンを指差し「あの、……これ」。私はにっこり笑って言った。「ええ。ダブルクリックでキャンセルなんですよ」。「……は、はあ。……」といいながらおばさんは何故かしらひきつった笑いを浮かべていたが、五階に到着すると、そのひきつった笑いを貼りつけたまま降りていった。
 私は籠の中で腕組みして思った。
「やはり四十歳以上の人間にダブルクリックは理解できんのか」


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1997/10/18
文責:keith中村
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