第364回 裏声では歌ふな君が代


 新婚旅行はビートルズの故郷リバプールへ行くのだ、とやや通俗的な計画を持っていたのだが、結婚後仕事が忙しかったので、いやこれは方便で、本当は夫婦共にものぐさなのが原因で、果たせぬままになっていた。そのまま二年が経過し、随分不精な私は一向に構わなかったのだが、さすがに家の者が堪りかねて、どこかへ旅行したいと言い出したので、それでは台湾へ行こうということになった。
 私は三年半前に社員旅行で台湾へ行った際、この国(と呼ぶべきだろう)がなかなか気に入ったのだが、しかし歴史や社会に浅学な私はほとんど何の知識もないままに彼の地を訪れたことに忸怩たる思いがあった。どれくらい浅学かというと、当時は丸谷才一氏の「裏声で歌へ君が代」を読んでもちんぷんかんぷんでよくわからなかったくらいだ。そこでそれ以来、台湾についてはつとめてあれこれ情報を仕入れるようにしてきたが、ちょうどその頃から台湾に関する書物が相次いで出版され、それらを読み進めるうちそれなりに台湾の背景も理解できてきたので、再訪したいと思っていたのだ。また、岳父は敗戦まで日本統治時代の高雄で暮らしていたので、家の者も父の生まれ故郷を見てみたいとこれに同意し、台湾へ行くことになったわけである。
 かねがね不思議であったのは、台湾が親日であるということだ。同じ植民地であった朝鮮半島は徹底した反日であるのに、政策的には朝鮮以下の扱いを受けていたはずの台湾が親日であるというのは、戦後の反戦教育を受けた身としては信じがたいことである。台湾でも蒋政権のもと、朝鮮半島同様の反日教育が行われていたわけであるし。
 以前は、朝鮮半島の反日が政治的カードであるのと同様、台湾の親日もある種の政治的カードではないか、と思っていた。もちろん、カードであるのは間違いない。特に発言力のある台湾人の親日が無条件の善意であるわけはない。しかし、たとえカードであるにしてもそれが「心にもないこと」であったとしたら、そこまでの親日を打ち出せるだろうか。たとえば前総統の李登輝氏の口癖は「私は二十二歳まで日本人だった」であり、親日であることで国府系メディアのバッシングも受けている。日本でのさまざまな出版物にあるような親日感情はどの程度真実なのか、その辺を確かめることができれば、というのが今回の旅行の目的のひとつであった。
 高雄から入って花蓮など東海岸を台北へ北上するこの旅行はいわゆるパックツアーであったが、時期をずらしていたため我々以外に参加者はなく、現地のガイドは丸っきり専属となった。

 高雄でのガイドは朱さんという小さな好々爺であった。お爺さんといっても、とても若くて元気である。六十代かなと思っていると「私、昭和六年生まれよ」と言うからかぞえで七十二歳だ。家の者が「私の父は高雄で生まれたんです」と告げると嬉しそうにして「わたしは反対に横浜生まれよ」。終戦によって台湾に戻ったらしく、日本時代の台湾は直接知らないらしい。「兄は横浜に残ったけど、私は戻ってきたよ。でも台湾は酷かったね」と言う。「狗去豬来」というと朱さんは「そうよ、そうそう」と笑った。狗去豬来(犬が去って豚が来た)というのは、戦後台湾に入ってきた国府軍があまりに酷かったので、本省人(戦前から台湾にいた人)の間で囁かれた言葉である。日本(犬)はやかましく吠え立てるが番犬としては有難い、しかし豚(国民党)はどうしようもない、犬のほうがよっぽど良かった、というわけだ。
 いろいろな場所を案内されるのだが、家の者も観光そっちのけで宋美齢がどうのとかあの三姉妹がこうの、とか朱さんを質問ぜめにしている。李登輝さんのファンです、などと言うが、家の者の言葉には「ファン」やら何やら横文字が交じるので、老人になかなか通じなくて彼女はもどかしそうにしている。
 今は忠烈祠になっている高雄神社に案内されたとき、境内の屋台に「打狗(タンカオ)」と書いてあったので、「あそこに『高雄』と書いてありますね」というと、朱さんは眼をまん丸にして「あなた、どうしてそんなことも知ってるか」と吃驚している。「そうよ。高雄は犬が多いよ。昔は犬をこう叩いておったですよ。犬を叩くで、タンカオ、タンカオ、ね。それを日本人が『高雄』という字にしたね。いい字を宛てた」と説明してくれた。
 街中に溢れる看板には、日本語のように左から右へ書いているものとはさかさまに、漢字を右から左へ書いているものが見受けられる。何でも蒋介石時代に「左」から書くとはどういうことだ、「右」優先だろう、という馬鹿馬鹿しい理由でそうなったのだそうだ。花蓮近郊の太魯閤にある、蒋介石が作らせた「慈母橋」もその名が右から書いてある。そういえば佐々淳行さんの本の香港領事時代の記述でも北京系の新聞は左から、国府系は右から書いてあるのでひと目で判るというのがあった。最近作られた看板などは左から書いてあるようだ。

 許さんは台北でのガイドである。台北では最初に中正祈念堂に案内してもらった。ここは前にも来たことがある。蒋介石の巨大な像の前で写真を撮ってあげようという許さんに家の者がぴしゃりと言った。
「独裁者の前では撮りたくありません」
 わっ、馬鹿、見ず知らずの相手にいきなり危険なことを言うなよ、と焦ったが、この言葉で許さんは破顔一笑。こっそりと「わたしもそう思います」。
 歳を訊くと許さんは五十七歳だという。ということはちょうど終戦の頃の生まれだから、統治時代は知らないようだが、父親からいろいろ教えられているらしく「昔は夜不閉戸だったのに」と言った。日本時代は治安が非常によくて夜も鍵をかけなくてよかったが、外省人がやってきてからは極端に治安が悪化したのである。
 やはり本省人にとって蒋介石は相当に評判が悪いらしく「もし夜警がいなければ私だって(中正祈念堂の)大扉に赤ペンキで落書きしますよ」などと過激なことを言って悪戯っぽく笑っている。
「台湾語はできますか」というので「できません」と答えると、脇から家の者が何を思ったか「でもこの人英語はぺらぺらなんです」などと余計なことを言う。もとホテルのハウスキーパーで英語も堪能だという許さんはこれ以降、会話の中にたびたび英語を持ち込むようになってしまい、これがかなり訛った発音でちょっと辟易した。
 家の者はここでも「私たち、李登輝さんのファンです」とアピール。許さんは頷いて「李登輝、素晴らしい人。蒋経国、ちょっとだけ評価できる。蒋介石は」と、肩をすくめた。「でも日本の観光客、特に若い人は李登輝と蒋介石の区別もつかない人ばかりです」と嘆く。たかだか三年余りの俄仕込みではあるが、二・二八事件も媽祖も神杯(台湾の寺で御籤を引くときに使う木片)の使い方までも知っている日本人観光客はかなり珍しかったのだろう、許さんは実に饒舌だった。
 おおよその感触としては、台湾の(本省人の)日本に対する感情は、台湾の発言者たちが我々に伝えようとしているものと同じだと考えて間違いなさそうだ。これを肌で感じ取れたのは、かなりの収穫であった。

 台北の宿は来来大飯店である。一応五梅級(台湾ではホテルのランクを星ではなく国花の梅で表す)ではあるが随分長い間改修されていないので古びているこのホテルが家の者は気に入らないらしく、高雄の漢来大飯店はよかった、と文句を垂れている。三年半前に泊まった国賓大飯店のロビーに連れて行くと、こっちのほうが遥かによい、とぶつくさ言う。せめても、と思ったのか食事は贅沢したいと、国賓にあるレストラン「川菜廰」に勝手に電話して予約しようとしている。どこでも日本語が通じるので油断したようだ。「Do you speak Japanese?」と訊いた後あたふたしている。ノーと言われたのだろう。蒼い顔で受話器をこっちに突き出す。こっちも焦る。「ええと。I'd like to make a reservation for あー、うぇる」
 どうにかこうにか、喫煙席でかつ見晴らしの良い窓の近くという(私の語力では)高度な予約をとりつけた。日ごろのほほんとしている亭主を家の者もちょっとは尊敬しなおした様子で、ほっとする。
 予約した時間にレストランに向かう。日本語が通じないようだ。今度はもっと流暢に喋ろうと、エレベータの中で「I'm Mr. Nakamura and I've got a reservation at 7:30」と何度も必死に練習していると、家の者が「何をぶつぶつ言っているのですか」。レストランに着いて「アイヴガラ・リザベイション」とやって「よし、決まった」と内心ガッツポーズを取っていると、受付係は小首を傾げ流暢な日本語で「ああ、予約の人ですね」。なんだ、日本語通じるじゃないか。
 川菜廰は四川料理の店である。普段食べつけないものばかりなのでいちいち吃驚する。
「ひゃあ、この鱶鰭、ばらばらの筋じゃなくて、丸ごと入っているよ」
 それもそのはず、メニューを見ると「鱶鰭スープ」ではなく「鱶鰭の姿煮」であった。
 蟹が出てきた。何という蟹か知りたかったのでウェイターに訊ねた。「これは何ですか」
「これは、ええと。ちょと、まてください」片言の日本語を喋る若いウェイターは奥に引っ込んでいった。「何蟹かなあ、おいしいねえ」と二人で待っていると、戻ってきたウェイターが自慢げに告げた。
「これは蟹です」
 隣のテーブルで数人の日本人が店員に何やらうろたえながら伝えている。「だから、このカードで支払いをしたい。使えるでしょ。えーと、ユー・シュッド。ユー・シュッドその」
 どうやら現金が足りなかったようだ。食べ物はそれなりに日本より安い台湾だが、たしかにこのレストランは日本の高級レストラン並みかそれ以上に高い。私もふと財布の中が心配になって、家の者にこっそり言う。
「おい。お金が足りないかもしれない」
「えっ」
「もし足りなければ、私は下のフロントに入って日本円を両替してくるから、それまで君は」
「はい」
「皿を洗いながら待っていてくれたまえ」

 さて「裏声で歌へ君が代」に出てくる台湾民主共和国準備国政府大統領である洪という登場人物はその架空の国の大統領就任挨拶でこう述べる。
「これはまつたくの仮定でありますが、心ならずも蒋政権に仕へて他日を期してゐる人もゐるかもしれません。おそらく、絶無とは言へないでありませう。そして、もしそのやうな人がゐるならば、われわれは彼ともまた手をつなぎたい」
 この小説が書かれたのは一九八二年で、当時李登輝氏はまだ副総統にもなっていなかった。三十年以上にも亘る戒厳令もまだ解かれていない頃である。
 これは慧眼の小説家の為せる予言であろうか。李登輝の国民党内部からの変革という奇蹟を経て台湾はいまや立派な(それも相当立派な)民主主義国家に生まれ変わろうとしている。
 ニュースで、台湾の国会で殴り合うくらいの激しい口論をやっている(たまに本当に殴り合っている)のを見かけることがあるが、これも台湾民主主義が健全に機能している証拠だろう。蒋政権の白色テロ下ではあのようなことは不可能だったわけだから。
 何度でも行きたい国だ。


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2002/04/19
文責:keith中村
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